そのうちに・・・

「ご相談したいことがあるんで、近いうちにお電話しますよ」
「一度ゆっくりお話したいのですが」
「お時間のあるときに一杯やりましょう」
このようなお話を承ることがしばしばあります。しかし、それが実現される確率は一割以下です。「あのお話は、その後どうなりました?」と改めて問い直すのもはばかられて、たいていはそのままになってしまいます。
いくら待っても実現しないということは、そのお話はウソであったということになります。
〈まあまあ、そう目くじらを立てずに。外交辞令なんですから・・・〉と言われそうですが、どうにも釈然といたしません。
辞書には載っていませんが「キョウト」と呼ばれる一連の外交辞令があるそうです。
「あ、ずいぶん長居をしてしまいました。もうお暇しなくては」と客が主人に告げると、
「まあまあ、よろしいやおへんか。いま夕飯をそう言いますさかいに」などと京都の人は引き留めるんだそうです。しかし、間違っても、
「そうですか、それならもう少し・・・」と居座ってはいけません。ご主人は夕飯の注文など全然する気がないからです。念の入った京都の奥様は、何も載せていい俎板を包丁で叩いて、夕飯の支度をしているふりをする、という話も聞いたことがあります。これは、早く帰れという客へのサインなのだそうです。
京都人でない私は、とてもそのような高度な交際術は身につけておりません。「相談したいことがある」と言われれば真に受けます。「一杯やりましょう」と言われれば、その日を待ちます。しかし、みんな待ちぼうけです。
反対に、こちらから「そのうち一杯やりましょう」と申し上げたら、必ず実行することにしております。忘れてしまうこともたまにはあるので100%ではありませんが、85%は実行している自信があります。そうだ、あの人との約束はまだ果たしていなかったな、と夜中に目覚めることもあるほどです。だから、あまり「そのうちに・・・」の安売りはしないように心がけております。
それにしても、あれ以来梨のつぶてのあの人、この人(5~6人の顔が浮かびます)、私への約束は一体どうなったのでしょうね。〈kimi〉

レトロスペクティブ嫌い

弊社のAは実にこまめにノートをとります。打ち合わせのときなど、手が動きっぱなし。使っている筆記具は水性ボールペンで、そのインクがすぐになくなるとボヤいています。すげ~。
反対に、私はめったにメモをとりません。ビジネスマン失格なんて言われそうですが、メモをとっても後でそれを見ることがほとんどないことに、ある日、気づいてしまいました。読み返さないなら書く必要がない。これって正論でしょ。
思い起こすと、小学校のときから私は復習をしない子でした。そもそも勉強というものをほとんどしませんでしたけど、イヤイヤやるのは予習だけ(だから成績がふるわなかったんだな)。仕事をするようになってからも、過去の仕事の検証とか報告書の作成などは、できれば御免被りたい。それより新しいプロジェクトの企画とか新製品の発売準備などの方が意欲が湧きました(だから出世しなかったんだな)。
難しい言葉を使えば、レトロスぺクティブな仕事よりプロスペクティブな仕事の方が好きっていうことになりますでしょうか。
そんなわけで、セミナーを受講するときも、一生懸命ノートするより、「なるほどなあ」とか「そうだったのかあ」とか「そうかなあ?」とか「そうじゃないだろう」とか、講師の言葉に触発されながら頭を動かす方がよほど面白い。頭に残らなかった部分は、たいし内容じゃなかったからだ。そう思うことにしました。近頃はスライドがハンドアウトとして配布されるので、ますます細かくノートをとる必要はなくなりました。
誤解のないように付け加えれば、ときには熱心にメモをとることもあるんです。会議の内容をまとめて文章にしなければならないときとか、イベントの手順を打ち合わせるときなど、要点をメモしておかなければ仕事にはなりません。
しかし、そのメモは実に汚い。悪筆にしてグチャグチャです。東大生のノートの対極に位置すると自負しております。そんなお粗末なメモでも、内容の再現性には自信があります。ポイントは外しておりませんのでご安心ください。しかも、他人には何が書いてあるのか判読不明です。セキュリティーも万全ですからご安心ください。〈kimi

日米リリース事情

外資系企業では、海外の本社で原稿を起こしたニュースリリースを翻訳して日本で発信する業務を頻繁に行っています。
医薬品や医療機器の分野に関して言えば、このような外国ネタに対するジャーナリズムの反応は一般に冷たいようです。やはり活きのよい日本のネタがの方がニュースバリューがある、というのが日本人記者の本音なのです。
だからといって、海外からの情報を日本で流さなくてよいということにはなりません。グローバル化が進んでいる今日、海外企業の動向は日本にも十分伝えられるべきだと思います。IRの面からもグローバルに情報を流すのは当然と言えます。
ところが、ちょっと困ったことがあります。欧米流のニュースリリースと日本のニュースリリースの書き方が違うのです。とくに米国は、企業発の情報がそのままストレートニュースとして地方新聞に掲載されることが多いようで、ニュースリリースをそのままコピペしても記事として通用するよう書かれています。日本の新聞社では、ニュースリリースはあくまで記事を書くための資料です。だから、日本のリリースはそのように書かれています。この違いが、英文のリリースを日本語に翻訳して発信するときに問題になります。どうにも違和感が生じてしまうのです。
一例を挙げれば、英文のリリースには、権威者のコメントが掲載されるケースが多い。たとえば、

「術直後の嫌気性菌性腹膜炎患者にとって、外科的治療は必ずしも最善の選択肢ではなく、当抗生剤による内科的化学療法が選択可能であることが証明されたことは医療界にとって大きな朗報です」と、ワシントン・リバーサエナイ病院医療センター感染症部長兼化学療法部長代理兼ICU部長で、ビクター大学医学部内科教授であり、NIHの臨時研究員でもあるブレイク・プアハンド先生は語っています。(内容は私の創作です)

こんなコメントをリリースに書き込んでも、日本の新聞に掲載されることはまずありません。記者自身の取材に基づかないコメントを掲載することなど、まともな日本の新聞は許しません。彼の地では著名でも日本では無名なドクターのコメントをそのまま受け入れる記者さんもまた100%いないでしょう。
日本で記事にしたいなら、徹底的に日本流のリリースに書き換えてしまう方がよいと私は考えています。しかし、逐語訳でないと許さない企業も少なくありません。それも理解できます。ちょっとしたニュアンスの違いで、NYSEに上場している本社の株価が大きく変動してしまう、というリスクもたしかに存在するからです。鳩山首相の論文の一部分が翻訳されて、米国メディアから批判された、と近頃話題になりましたが、それと同じようなことですね。
さて、どうしたものか。翻訳リリースの原稿直しを依頼されるたびに、悩みは深くなるばかりです。〈kimi〉

エラ過ぎる人をトレーニングできるか

メディアとコンタクトする可能性のあるエスタブリッシュメントの方にはぜひメディアトレーニングを受けていただきたい(カタカナばかりでゴメンナサイ)。このような地位にある方々はスピーチをなさる機会も多いので、スピーチのトレーニングも必要でしょう。
ココノッツでは企業の皆様を対象にメディアトレーニングを行っていますが、一番エライ人、カリスマ経営者、オーナー社長などにトレーニングしてほしいというご依頼はほとんどありません。仰ぎ見るような地位に君臨し、周囲にオーラをまき散らしているようなエラい方に向かって、部下が「トレーニングを受けてください」とはとても言えないのでしょう。その気持、よ~くわかります。
ところが、そのような方ほど話がお上手ではないケースがしばしば見られます。エラ過ぎる人は、どんな回りくどい話し方をしても、どんな非論理的な話をしても、どんな飛躍の多い話をしても、どんな不遜な話し方をしても、周囲の人たちはかしこまって聞いてくれます。だからご本人は「それでイイノダ~」と天才バカボンのパパ状態になってしまいます。
なんとかアドバイスをして差し上げたいと、広報コンサルタントとしては歯がゆい思いをすることが少なくありません。部下の方ではとても言えないアドバイスが、外部のコンンサルタントならできる場合もあります・・・と、セールスプロモーションみたいなことを書いてしまいましたが、誰がアブナイって、一番エラい人が一番アブナイんですから。某政党の例をみればよくわかりますね。〈kimi〉

社内の理解

私が広報の仕事をメインにし始めた頃、広報の世界の先輩たちが「会社が広報をちっとも理解していない」、「社内で広報活動を理解してもらえない」と悲憤慷慨されている声を何度となく耳にしました。それから20年、それらは改善しているのでしょうか。
その後、日本の多くの大企業に広報セクションが設けられ、強化されてきたのは間違いのない事実です。その意味では改善されていると言えるでしょう。しかし、それらの企業においても、社員の一人ひとりにまでパブリックリレーションズの理解が及んでいるとはとても言えない状況です。
実際現在においても、広報を仕事をしている人たちの間では、同じような嘆きを聞くことが度々ありますし、あきらめにも似た気分さえ漂っているように思います。
「わかっちゃいねえなあ」などと、広報に無理解な幹部や社員をののしっていても仕方がありません。このような広報やIRに対する無理解には構造的な問題があると、私は考えています。
サラリーマンという存在は、本質的に企業(全体)としての利害より、自己ないし所属部門(部分)の利害を優先するものです。現業部門は、自部門や自分に与えられた売上げと利益目標だけに責任を持たされています。スタッフ部門でも、評価は「自分の仕事の成果」に対して与えられます。だから、自分の業務外の仕事に時間やエネルギーをとられたくない、というのが本音なのです。当然、広報に協力して自分たちにどんな得があるの?という疑問も生じます。
ところが、広報やIRは本質的に全体に奉仕する仕事です。だから、広報と社内各セクションの間で、全体対部分という図式の対立が生じやすいのです。広報と他のセクションが協力してやって行こうというプロジェクトでも、自部門の予算がそれに使われることには拒否反応が出たりもします。自分のものは自分のものなんです。国益よりも省益などと言われるのも、根は同じことでしょう。
また、広報やIRの仕事に協力することは、自分の仕事を公の場にさらけ出すという一面があります。すると、思わぬミスや隠し事が表に出るかもしれません。そのようなリスクをサラリーマンたちは本能的に感じとるので、できればそれを避けたいという思いが強くなります。触らぬ神に祟りなしです。できるだけ情報公開はやめておきましょう、という結論にもなりがちです。
これらの本質的な解決は、経営者の強いリーダーシップなくしてはあり得ませんが、そのようなリーダーには滅多に出会えません。
幾多の障害要因を突き抜けくぐり抜け、うまく回避しつつ目標を達成する。それが広報やIRに携わる人たちのやり甲斐です。どんな仕事にも困難はつきものだし、問題解決することこそ「仕事」というものですからね。〈kimi〉