切れた靴ひもと神社に運ばれたライオン

織田選手のスケート靴のひもが切れました。新しい靴ひもは伸びるのでしっくりこない。それで切れ掛かった靴ひもを使っていたそうです。大仕事の前には何度もチェックをして、リスクをできるだけ洗い出すのがビジネスの世界では当たり前のことです。
三味線の糸も、靴ひもと同じように新しいとどんどん伸びます。演奏中に伸びると音程下がってしまいます。発表会に臨んでは、切れるリスクがあっても伸びにくい使い込んだ糸を使うか、音が狂うのを承知で新しい糸に張り替えるかというジレンマに陥ります。三味線の師匠によれば、発表会の日の朝に新しい糸を張って、演奏までの時間をつかって糸の伸びを取るのだそうです。立派なソリューションです。織田選手にもそのくらいの配慮が必要だったのかもしれませんが、ここ一番というときに慣れ親しんだ感覚を大切にしたいという気持もわからないではありません。理をとるか情をとるか、まことに難しい問題です。

隅田川をはさんで浅草の向かい側、向島に三囲神社という古社があります。ここに狛犬ならぬライオンが鎮座しています。そのライオン、実は三越池袋店の入口に鎮座していたものです。三囲神社は、越後屋呉服店の頃からずっと三越と関係の深い神社なのだそうで、その縁でここに運ばれて来たようです。
しかし、ちょっと待てよと、場違いなライオンを見ながら考えました。池袋店は業績不振で閉めたはずです。多くの社員が心ならずも去らなければならなかったたはずです。一方、店の入口から撤去された大きくて重いライオン像をここまで運んで据え付けるには、それ相応の経費がかかったはずです。それって少々おかしくはないか、と連れの友人に問いました。すると友人は「三越にはライオンへの強い思いがあるのだろうから、いいじゃないか」と答えました。周囲の何人かにも同じ質問をしてみましたが、友人と同様の意見が多かったのは意外でした。理をとるか情をとるか、まことに悩ましいことです。
たまたま今週号の日経ビジネス誌は「三越伊勢丹の賭け」という特集です。贅沢という情の世界で商売をしてきたデパートの苦悩はまだまだ続きそうです。〈kimi〉

多読あるいは読書自慢について

新社長を紹介する新聞のコラムを読んでいたら、「年に100冊超の乱読」なんて書いてありました。
読んだ本の数を自慢しても意味がないというのが、読書家でない私のかねてからの主張(兼自己弁護)です。量よりも、何を読んだか、読んでどう考えたかということの方がよほど重要ではないか、という考えです。
しかし、どう考えたかは簡単に表明できません。社長が読書感想文を書くわけにも行きません。一方で、ビジネスマンは何事も数字で示せと若いときから教育を受けています。社長になるようなエリートはなおさらです。そこで何冊読んだ、ということになりがちなんだろうなあと、新社長のコラム記事を読みながら考えました。
友人にも本に関しては絶対に負けられない、という人間がいます。ビジネスマンではないので定量的には表現しません。名著の話題が出ると、それは中学のときに読んだ、あれは高校生のときに通読した、と必ず自己の優位性を表明します。古今東西、読んでない本は存在しないかのような勢いです。あんな難しい本を中学生が読むだろうかと思わなくもないのですが、そこを追求しないのが友情、あるいは武士の情けというものです。最近出版された本に関しては、さすがに中学生のときに読んだとは言えないので、すぐに読んで、その報告が入ります。誠にご苦労様なことです。
先日のことですが、ある英会話のテキストが話題になりました。数日後、彼からメールが届きました。初級編、中級編、上級編全3冊を読了したそうです。それって、なんか変じゃないですか?〈kimi〉

腰パンと企業の論理の関係

先日駅のエスカレーターに乗ったときのことです。前にいた男子高校生が盛んにズボンを気にしていました。てっきりズボンをたくし上げるのかと思ったら、意表をつかれました。彼はズボンを下げたのです。すでにベルトの位置は十分腰骨の下にあるにもかかわらず、です。
スノーボードのオリンピック選手が、ユニフォームのズボンをずり下げて空港に現れたと非難されています。私は実に寛容です。異なる価値観を受け入れることを基本としてこれまで生きてまいりました。だから高校生もスノボの選手もどうぞご自由に、といったところです。
しかし、少々気になることがあります。スノボの選手はストリート系ファッションが好みと報じられていますが、ズボンを腰骨より下げるのが、ストリート系ファッションなんでしょうか。若者のファッションに疎くなってしまったので自信はありませんが、ちょっと違うのではないか、という気がするのです。以下、独断と偏見で。
腰パンはサギー・パンツという米国輸入ファッションと言われていますが、日本の場合は、それとは異なる背景があるような気がします。近頃すっかり見かけることが少なくなった着丈の長い学生服、いわゆるガクランの流れです。これを戦前の蛮カラと結びつける説明もありますが、信用しかねます。蛮カラは、現在とは異なる階級意識のもとで、エリート層の内部での反骨精神の発露だったのです。ガクランや腰骨ズボンは、社会的エリートとは対極の存在でしょう。
スノボの選手もエスカレーターの高校生も、彼らの属している集団の中でのカッコよさを目指しているのでしょう。その小さな集団の中で評価されることに、価値観を置いているのです。その意味では、蛮カラもガクランも腰骨ズボンもまったく同じ種類の自己表現です。
これは企業社会にも当てはまります。いわゆる企業の論理というものです。自動車会社の論理が消費者の意識とズレていると、これまた批判を受けていますが、それとスノボ選手のベルトの位置はどこかでつながっているのではないでしょうか。遠い親戚なのだと思えてなりません。〈kimi〉

ちょうど時間となりました

昨日は都内某所にて、正味5時間30分のレクチャーを担当しました。これだけの長時間になると、時間配分がとても難しいんです。
準備段階では、時間が余ってしまうのではないかという恐怖が先だって、ついついパワーポイントの枚数を多くしてしまいます。いざ話し始めると、今度は時間内にすべて話せるかという心配の方が強くなってきます。
回数を重ねるうちに、ある程度は伸び縮みができるようになりましたが、5時間以上ともなると、難易度が相当高い。なにはともあれ時間オーバーだけは絶対にしないように、時計を横目に突き進みました。

講演会やセミナーで、終了時間をとうに過ぎているのに悠々と話し続ける人がいますね。場内がだんだんザワついてきているのにも気がつかない。ご本人には話したい内容がまだまだあるのでしょうが、聞き手の耳にはすでにほとんど到達していません。退席しにくい雰囲気の会場だと、椅子に縛られたままこの状態を甘受しなければなりません。
ようやく長いお話が終わってほっとする間もなく、司会者が「時間は過ぎてはおりますが、ご質問がある方はどうぞ」と呼びかけます。手を挙げるなよ、手を挙げるなよと密かに念じているのに、こういうときに限って手を挙げる人がいるんですね。
その質問がまた長い。一種の演説だったりします。回答がまたまた長い。ようやく終わったと喜んだら、「他にご質問はありませんか?」とまた呼びかけるから、がっかりです。もう誰も手を挙げません。会場中が「早く終わってくれ~い」の怨念大合唱になっているにもかかわらず、司会者はじっくりと会場を見回します。この時間がとてつもなく長く感じられます。舞台に駆け上がって司会者をぶん殴ってしまいたいという衝動と戦っているうちに、長い長い講演会はお開きとなります。

そういうことが起こらないよう、昨日は途中を端折って定刻20分前に終了。それではご質問を、と会場を見回しました。
すると一番前の方が手を挙げました。「まだ20分ありますから、先ほど飛ばされたところを話してください」
リクエストに応えて、その部分の解説を加えたら、ちょうど時間となりました。長時間のレクチャーって、ホントに難しいですね。〈kimi〉

けじめ

とくに秘密でもプライバシーに関わることでもないのに、こちらの何気ない質問に答えを言いよどんだり、いかにも話したくないそぶりを見せる方がいます。こういう方とやりとりしていると、さっぱり状況がつかめなかったり、どこか合点が行かない部分が残ったりするものです。慎重派。ガードが堅い。秘密主義。いろいろな表現ができると思いますが、それはそれで個性の一つですから、あえて目くじらを立てるべきものではありません。
しかし、企業で広報の仕事をしておられる方においては、これはちょっと困った性向ではないでしょうか。
取材する側からすれば、それが広報担当者自身の性格なのか会社の企業姿勢なのか、にわかには判断がつきかねます。しかし、最初に受けた秘密主義的な印象は長く心の底に残るはずです。これは会社にとって大きなマイナスでしょう。
一般論ではありますが、守りの姿勢が強い企業は、広報の担当者にもそのような性格の社員を配しているようです。さらに言えば、経営者が守りに入っているときは、その傾向が強まり、攻めに回っているときは売り込み型の外向的な方を任命するようです。
広報は会社の顔と言われます。生まれつきのご性格は変えようがありませんが、せめて話せることはちゃんと話す、話せないことは絶対に口を割らない、そのけじめだけはつけておいた方がよろしいと思います。〈kimi〉