どうしてデジタル化しなかったの?

https://mainichi.jp/articles/20180810/k00/00m/040/187000c
富士山測候所の68年間にわたる貴重な記録「カンテラ日誌」を捨ててしまったそうです。気象台に配属された事務官は、記録に対する価値観や意識をまったく持ち合わせていなかったのでしょうか。同時に、それほど大切なものなら、どうしてデジタル化しておかなかったのか、という疑問も湧いてきます。この記事を読んで思い出したエピソードがあります。
ちょうどITの黎明期のことです。勤め先の会社は、過去にさまざまな広告活動をしていて、有名な広告賞を受賞したこともあります。レベルの高いパンフレットやカタログも制作していました。それらの関連資料は十分整理もされずにあちらこちらに分散保管されていました。そこへオフィス移転の話が持ち上がり、お決まりのことながら不要な書類を整理するようお達しがありました。
宣伝セクションの管理担当課長がそれに反応しました。彼は、当時普及し始めたカラー複写機で過去の広告原稿などをすべてコピーし、大きめの資料はコピーをペーパーセメントで丁寧につなぎ合わせて、何冊かのポケットファイルに収めたのでした。原資料はすべて廃棄しました。そのときの課長氏の自慢げな表情をいまでも覚えています。
それらの資料がその後どうなったかは、説明するまでもありません。カラーコピーはすっかり色褪せ、ペーパーセメントは剥がれてめくり上がってしまいました。さらに重要なことは、二次利用の可能性がまったく失われてしまったことです。当時、すでに画像のデジタル化は可能になっていました。さらに数年待てば、誰もが手軽にデジタル化できる時代になりました。
手をつけるのが早すぎたのか、技術の進歩を見通せなかったのか。このエピソードを思い出すと、なんだか悲しくなって仕方がありません。

wordingの問題もあるのでは?

ダイニングチェアを買う必要に迫られました。1年ほど前のことです。
まずお値段が気になるので、ネットであれこれ調べました。材質や構造の違いとともにおおよその価格帯がわかりました。テーブルと椅子との高さの差が重要であることもネットで知りました。しかし、現物を見ないのはリスクが高すぎます。さて、どこへ見に行こうか。
何年か前なら大塚家具へ行ったと思います。ニトリやイケアよりちょっと上等な家具が見つかりそうな気がしたからです。これまで何度も大塚家具で買い物をしてもいます。しかしお家騒動の末、大塚家具は路線転換してニトリやイケアの路線を目指すと表明しています。では、どこへ行ったらよいの?
大塚家具が苦境に立っている要因の一つにnamingあるいはwordingの問題があるような気がしてなりません。いまの大塚家具が売ろうとするターゲット層や商品のポジションを経営者が適切な言葉で表現したのを聞いたことがありません。
ニトリやイケアなら、「まずまず安い(中価格帯?)」、「デザインはシンプル」、「そこそこ満足できる品質」といった言葉が浮かびます。高級品から低価格品までなんでも置いてある店というのも便利なもので、以前の大塚家具は高級路線と言うより、そのような大規模店であったと思います。でもいまは「安いのかどうか信頼しきれない」、「中途半端にデコラティブな家具も置いてある」、「品質は大丈夫かどうかわからない」 いまは一体何なの? ポジショニングを言葉で示してほしいですね。

やっかみ、妬み、焼きもち・・・

今日8月8日付の日経産業新聞に、近鉄がウエスティン都ホテルを改装して客室単価を2~3万円から4~7万円程度と倍以上にするという記事がありました。
やっかみ、妬み、焼きもち、反感・・・若いときから今日に至るまで、足を踏み入れるたびに、そのテの感情が浮かび上がる場所が高級シティホテルです。蹴上の都ホテルにはかれこれ20回くらい宿泊した経験があります。まだ名称に「ウエスティン」がついていない頃のことです。しかし、もういけません。京都より東京の方がもっといけません。近頃次々につくられる長いカタカナ名前のホテルがとくにいけません。
こちらは零細企業のビンボウ人ですから、どこのホテルでも歩いてエントランスに入ります。脇に立っている警備担当者の視線が気になります。これだけで、やっかみ・妬み気分が沸々とわき上がってきます。ベンツのSクラスなどからここに降り立てば、さぞかし丁寧に応対してもらえるだろうに・・・と。
最近は、目指す宴会場やレストランへのルートがさっぱりわからない高級ホテルが増えました。「これがエレベータホールか」という凝ったデザインのホテルもあって、どちらへ行けばよいのやらキョロキョロするばかり。ベルボーイ・ベルガールに尋ねれば丁寧に教えてはくれますが、腹の中では「おや初めての客かい? こんな高級なホテルに来る人種じゃないだろ」と思われているのではないかと邪推してしまいます。ここまで来るともう「いじけ」や「ひがみ」そのものですが・・・。
これから東京には富裕層だけを対象とする高級ホテルがさらにいくつもつくられるそうです。誰が泊まるのかなあ? 自腹の客は少ないだろうなあ。自分に縁のない場所がますます増えるのだなあ、などとひがみつつも感慨にふけってしまうのでした。

おやじの背中

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朝日新聞にときどき載る「おやじのせなか」という記事などが一つの典型ですが、子が親について書いているものを読むと、お父さんも苦労したんだなあ、お母さんもつらかったんだろうなあと、そこはかとない「あわれ」を感じてしまいませんか。それ、どうしてなんでしょう。
書いている人は有名人、ということは世の中の成功者ですから、相対的に無名であった親がなんとなくかわいそうに思えてくるのでしょうか。有名人の親だって、それなりの成功者であったり、何かの方面での功労者であったりはします。しかし子の目には、それはあまり見えていない。家族という内側から親を見ているからかもしれません。どこまでも親は親ということなんでしょうね。
先日テレビで長嶋一茂さんが「私は親の七光りでこれからも生きて行きます」と開き直っていました。一茂さんだって独自の存在感を持つ世の成功者ですが、親がエラ過ぎたということでしょう。
幸いにもわが家は何代にもわたってデコボコなしなので、そのあたりは平和そのものです。