2018/7/6 金曜日

ココノッツはいけませんか?

Filed under: よもやま — Kimi @ 11:44:19

ネット上の情報によれば、「9」と書いたTシャツを着て国会の傍聴に行こうとすると、衛視に入場を止められるとか。「9」は憲法第九条を連想させるから、ということらしいのですが、これが事実だとすれば(フェイクニュースでなければ)、思想の自由、言論の自由という民主主義の根本にとって由々しき問題だと思います。
と同時に、これは困ったことになりました。弊社の社名「ココノッツ」です。
ココノッツの由来として、弊社のサイトには次のように書いています。
coは『一緒に』、『お互いに』といった意味を持つ接頭辞です。Knotは『結び目』です。『絆』、『集団』といった意味もあるそうです。 広報という活動を通じて、企業や団体と社会を結びつけて行きたいという思いから、CocoKnotsという社名にしました。 もう一つ。ココノッツは『9』でもあります。『満れば欠くるは世のならい』と申します。10になることを目指して常に努力したいという気持も込めています。」
http://www.cocoknots.co.jp/mission.html
「9」でもあるんですよ、「ココノッツ」は。ということは、弊社は国会には入れないことになる。
この社名を考えた10年前に、「ココノッツ」が憲法第9条につながるとは想像もしていませんでした。変な世の中になってしまったものです。

2018/7/3 火曜日

いい先生だったんだなあ

Filed under: よもやま — Kimi @ 14:54:33

4120
先日、卒業した高校の同期会がありました。なにがなんだかわからないうちに幹事の一員にされてしまい、及ばずながらお手伝いをしました。
そこは、都立高校としては最低レベルの偏差値を誇っていました。前身が女学校だったこともあって男女半数ずつ。卒業後の進路も進学と就職がほぼ半々でした。当時の4年制大学進学率は全国平均で約13%、男子が20%で女子は5%に過ぎません。それを考えれば、偏差値の割にはかなりの進学率と言えるでしょう。同期生の中には、それなりに著名な画家や元大臣の野党代議士などもいます。
開催の準備をしている中で気づいたのは、当時の先生方の何人かが、その後大学教授になっているという事実でした。大学教授になったからエライというわけではありませんが、高校教諭をしながら専門の勉強や研究をコツコツしておられたのだなあ、という感慨が起こったのでした。
3年時の担任だった現代国語の先生は折口信夫門下の文学者として、研究者の間では知られた存在でした。所属したクラブの顧問だった倫理社会の先生はドイツ哲学、社会学の研究者で某私大の経済学部長でした。そのようなバックグランドを持つ高校教師だったことなど、現役高校生のときはまるで知りませんでした。ネットが発達した現在だからこそ調べることができた事実でもあります。
日経新聞の「私の履歴書」など、有名人や経営者の自伝に、恩師がいかに素晴らしかったか、といった記述を見かけることがありますが、その先生に教わっていた当時に、本当にその偉大さを認識していたのでしょうか。後付けじゃないの? 自分のうかつさを棚に上げて、そんな素朴な疑問が浮かんだりしたのでした。

2018/6/21 木曜日

日本的な重大問題について

Filed under: よもやま — Kimi @ 10:02:23

整列乗車2
なるべく始発電車を利用して、座って出勤することにしています。同じ考えの人が多いので、発車時刻の20分前にはすでに列ができています。
鉄道会社では3列に並ぶように促していますが、実際にはある駅では4列であったり別の駅では2列であったり、駅によって異なります。いつも使うこの駅の慣習では、何年も前から2列です。ところがここに一つの重大問題が進行しつつあります。
2列で10人以上が並んでいる先頭の横に、最近男が一人立つようになったのです。これで3列になるわけですが、男の後に並ぶ人は誰もいません。後から来た人はみな長い2列の後につきます。男に苦情を言う人はこれまでのところ現れません。複雑な表情で男を見ていたり、知らん顔してスマホを見ていたりするばかりです。
鉄道会社が3列での整列乗車を促していることを考慮すれば、この男の行為が非難される筋合いはないとも言えます。しかし、日本的な、極めて日本的な空気の読み方からすれば、違和感を持たれて当然ということにもなります。後から来て先頭に並ぶのは「列の割り込み」と判断できないこともありません。
さて、あなたならどうしますか?と、ハーバード大学のナンチャラ教授の授業のテーマになりそうですが、私ならどうするか? わかりません。幸か不幸か私がいつも並ぶ列の問題ではないし・・・。
この問題の行く末がどうなるのか、注意深く経緯を見守りたいと思います。

2018/6/8 金曜日

オヤジがゴルフ好きの鮨屋には行くな

Filed under: よもやま — Kimi @ 13:34:30

昔の勤め先の社長は、「オヤジがゴルフ好きの鮨屋には行くな」としばしば言っていました。ゴルフに凝ると本業がおろそかになって、握る鮨がうまくなくなるといった趣旨であったかと思います。大手企業の経営者兄弟がゴルフに凝りすぎて経営が一時傾いたという話は、ご本人がどこかで書いていたので事実なのでしょう。しかし、ゴルフと鮨の味との相関関係についてはよくわかりません。
傍証を挙げれば、店にゴルフのイラストを掲示していた鮨屋はその後居酒屋に衣更えしてしまいました。ココランチにも掲載していた麹町の鮨屋もオヤジがゴルフ好きでしたが、いつか消えてしまいました。
こんなことを思い出したのは、先ほど昼食で入った鮨屋のオヤジが大声で客とゴルフの話をしていたからです。ランチのサービスメニューを食べただけなので、味を云々するわけには行きませんが、先日行った近くの鮨屋よりはうまかったような・・・今後を見守りたいと思います。

2018/5/30 水曜日

「丁寧に説明したい」

Filed under: よもやま — Kimi @ 17:07:31

近頃、あちこちで「丁寧に説明したい」というフレーズを見かけるようになりました。その端緒は国会の政府答弁なのでしょうが、これは一時の逃げ口上で、実際には少しも丁寧でないとは、誰もが感じるところです。
・・・と思いながら、電子辞書の広辞林を引いてみたら、「(1)注意深く念入りであること。細かい点にまで注意の行き届いていること。また,そのさま。(2)動作や言葉遣いが,礼儀正しく,心がこもっている・こと(さま)。(3)何度も繰り返すこと。特に何度も忠告すること。(4)文法で,話し手が聞き手に対して直接に敬意を表現する言い方。→丁寧語(一部省略)」となっていました。
これを政府答弁その他に当てはめると、どうやら(3)の意味でお使いになっているのではないか、と思い当たりました。何度も何度も同じことを繰り返している(新事実が出てくるたびに少しずつ修正されていますが)。なるほど。確かに「丁寧に説明して」いるのに相違ありません。

2018/5/28 月曜日

日大アメフト部問題から目が離せません

Filed under: 広報,広報ど真ん中 — Kimi @ 14:42:13

政治の世界の方がより深刻ではあるのですが、広報の人間としては日大アメフト部の問題から目を離せません。広報の歴史に残る出来事がこんなにつぎつぎに起こるなんて、めったにないことですから。
本質的な問題については各メディアで論じられていますし、ツイッターなどでもいろいろな指摘がありますので、ここで書くまでもありません。
興味深いのは、関学と日大の広報のあり方です。記者会見で記者と議論してしまった司会の日大広報部顧問氏も、冷静な受け答えをしていた関学のディレクター氏もどちらも記者出身だと報じられています。
前にも書きましたが、企業(団体)の広報でメディア出身者が成功した例は少ないと思います。企業とメディアとの間には深くて、暗いかどうかは知りませんが、越えがたい川が存在します。企業内での広報の役割や活動は、メディア側にいては見えにくいのです。さらに、記者という職業に長く携わっていると、アタマを下げるのが苦手になるようです。権威にアタマを下げていては記者は務まりませんから。メディアで活躍し請われて企業の広報に入ったら、一から広報の基本を学ぶことなどプライドが許さないでしょう。その典型が日大顧問氏のように見えました。関学ディレクター氏は希有な存在なのかもしれません。

2018/5/22 火曜日

ウソをつくことは得なのか?

Filed under: よもやま,広報,広報ど真ん中 — Kimi @ 15:29:12

世の中、ウソつきが多いのだなあと、このところつくづく思い知らされます。
広報の仕事をしていると、なんとかコトを大きくしないように計らったり、アドバイスしたりはしますが、「ウソはいけません」ということは一貫しているつもりです。ウソはいつかばれる日が来ます。それが明日だったり50年後だったりするだけのことです。
危機に際しては、自分の身や自分の利益を守ろうとすればするほど、身を滅ぼしたり大きなダメージを受けたりする確率が高くなることが経験則からわかっています。本気で身を捨てるつもりになることで身が守られる確率は決して少なくはありません。しかし、すべてを失う確率の方もまた少なくありません。どちらをとるか。
人間の尊厳とか名誉とか品格とか、そのような要素を加味しようとすれば、ウソはつかない、過去のウソは撤回して謝る、自分を守ろうとしない・・・という選択になります。今後の利益が守られるなら、そんな要素はどうでもよいと考えるならば、ウソを貫くのも一つの選択肢ではあります。ただし、それが成功する確率も100%ではないのが悩ましいところです。

と書いたところで、反則を犯した日大アメリカンフットボール部の選手の記者会見が始まりました。近頃まれに見る謝罪会見の成功例です。誰が見てもウソを言っているようには思えないでしょう。関西学院大学の監督も敬意を表するとコメントしました。彼の前途が開けますように、と願わずにいられません。

2018/5/11 金曜日

7-38-55で負けでしょう

Filed under: よもやま,広報 — Kimi @ 11:34:56

発したメッセージ内容とは異なる表情や態度を示した場合、話の内容などの言語情報から受ける影響は7%に過ぎず、声のトーンなどの聴覚情報による影響が38%、表情など非言語の視覚情報によるもの55%だというのが、メラビアン(またはマレービアン)の法則と言われるものだそうです。「そうです」と伝聞で書いたのは、原著を読んだことがなくWikiを読んだだけだからです。原著の翻訳は古書で5000円もするのです。
広報に関係している人の中にも、この説を曲解したメラビアンの俗説”を信じている人が少なくありません。「人は見た目が9割」などという本がその代表で、説明は省略しますが、皮肉なことにこちらの本は読んだことがあります。
こんなことを思い出したのは、このところ国会の証人喚問や参考人招致、さらに政府の答弁などをニュースで繰り返し見るからです。確かに証人や参考人や政府関係者は上手に言い逃れています。しかし、それらの中継やニュースを見ている国民は、せっかく知恵を絞って練り上げた答弁という言語情報からは7%しか影響を受けないことになります。これはどうにも政府側の分が悪い。ではないですかね。

2018/4/19 木曜日

チャーチルとダンケルク

Filed under: よもやま — Kimi @ 15:18:26

15日日曜日の東京新聞「こちら特報部」の“本音のコラム”に山口二郎氏が映画「チャーチル」について書いていました。日本の現首相も見たのだとか。
たまたま飛行機の中で、この映画を見る機会がありました。
チャーチルが首相に選ばれるプロセスから始まり、フランスのダンケルクでドイツ軍に包囲されている英軍をどのように救出させるかに苦悩し、対独和平への誘惑を、生まれて初めて乗った地下鉄の中で直接国民の声を聞くことで振り切り、議会で、戦いの継続を「すべての英単語を駆使して」訴えるまでを描いています。このような演説の語法が日本語にはいまだに存在しないことをつくづく認識させられました。とくに最近の国会でのやりとりを見ると・・・。
さらにムービーのプログラムを検索すると、なんと「ダンケルク」があるのを発見。「チャーチル」が政治の場での英独戦を描いたものなら、こちらは同じ時系列における戦いの現場を描いたもの。ダンケルクに追い詰められている英軍を動員された多くの民間船舶が救出に行くエピソードを中心に描いています。
たまたまですが、日本人には馴染みの薄い第二次世界大戦初期の英独戦を、二つの面から知ることができたのでした。

2018/4/3 火曜日

ドラマの裏側はわからない

Filed under: 広報,広報ど真ん中 — Kimi @ 10:35:24

自分の会社が記者やジャーナリストから自分の会社がどのように見られているか、どこの企業も強い関心を持っています。そこで企業認知や自社の広報活動に関して記者の声を聞く場を設けたり、調査をかけたりすることがあります。これらは経験上とても有意義な調査になることが多く、自社の広報活動の成功している部分、足りない部分がクッキリと浮かび上がります。他社の広報活動について有益な情報やヒントが得られることもあります。
それはそれとして、このような調査を通じて気づくことがあります。記者やジャーナリストは“企業の広報を知らない”という事実です。
あそこの広報は頻繁にコンタクトしてくる、あそこの社長はフランクに取材に応じてくれる、この会社は役に立つメディアセミナーを開催している、といったことは現場の記者はよく知っています。彼らは広報の対象、もしくは受け手ですから当然です。
ところが彼らは、そこに至るまで、広報セクションがどのような目標のもとに、どのような企画を立て、どのような地道な作業を積み重ねているかについてはわかりようがありません。
テレビドラマにたとえるなら、ドラマを見ている私たちには、出演者の演技やストーリー展開の良し悪しについて感想を述べたり批評したりすることはできます。しかし、プロデューサーがどんな企画を考え、脚本家がどのような取材をし、どこにロケハンをして、ディレクターはどんな演技指導をしたのか等々の裏側は、テレビを見ているだけではわかりません。そんな楽屋落ちを覚らせることなく楽しめるドラマこそ理想でしょう。広報も同じことです。広報のテクニックや仕掛けなどを記者やジャーナリストに覚られてしまっては失敗です。
記者出身者を広報の責任者に据える企業や団体があります。しかし、大きな成果を挙げることが少ないのは、そんなところに要因があるのかもしれません。視聴者や評論家がドラマをつくろうったって、そう簡単には行きませんぜ。

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